月時雨 月夜に浮かぶ雲はまだらに光を遮る。せっかくのいい月が台無しだ、と隣で酒を煽る京楽が呟いた。 もう随分冷えてきた。上着を羽織っていないとまたに何か言われる、と傍に放ってあった羽織を肩に引っ掛ける。 そのは、京楽が飲みつくした酒を新たに調達するために奥へ引っ込んでいる。 京楽と浮竹の間に置かれた盆に載っているきゅうりの浅漬けだとか、豆腐のあんかけだとか、きんぴらごぼうだとかは、 大酒飲みの二人に配慮してせめて酒のあてぐらいは健康によいものをとがさきほど手早く作ったものだ。 もっとも半分くらいは今夜の夕飯のおかずだったのだが。京楽が酒を片手に突然尋ねてきたのは半刻ほど前。 ちょうど夕飯の準備が終わった頃にまるで見計らったように現れた客人に、浮竹は半ば呆れ、はそれでも笑顔でもてなした。 「うーん、美味かな美味かな。君また料理の腕上げたみたいだね」 ぱくぱくと料理を口に運ぶ京楽はしきりにその味を誉める。猪口をゆっくりと口に運んでいた浮竹が 「そうかぁ?変わらねえと思うけどな」と返すのに、彼は憤慨して「毎日こんなに美味しい料理食べてるから分からなくなるんだよ この贅沢者!」と浮竹の分の鶏のピリ辛揚げを箸で奪い取った。 「ああっ何をするんだ京楽!」 声を荒げても小鉢の中の最後の一つだった鶏のピリ辛揚げは京楽の口の中で咀嚼され、戻ってきそうに無い。 好きなおかずは最後まで取っておくという地味な性格が災いした。普段はと二人きりだし、彼は絶対に人のものを盗ったりしない。 上級貴族であるはずの京楽ならば家に帰ればこれ以上に高級な料理が出てくるだろう。文句を言うためにそのことを引き合いに出すと、 京楽は顎の髭を手で撫で付けながら天を見上げた。 「だってね〜愛情がこもってないんだもの。君の愛がこもった手料理食べたらもう他の料理食べられないよ」 「だからといって、ああ、最後の一個だったのに……久しぶりに作ってもらったのに」 「また作ってもらえばいいじゃないの。それにしても本当に君は料理上手だよねえ。ウチにお嫁に来ないかなあ?」 「三食昼寝付きなら考えてもいいですよ」 戻ってきたが出来たばかりの料理を二人に差し出しながら言う。酒も新しく持ってきた。 「本当に〜?どうしよう、浮竹。ボク君の義弟になっちゃうかも」 「却下だ。をこんなむさいオッサンのところに嫁には出せないからな」 「あはは。じゃあ駄目です。春水さん、ご縁がありませんでしたね」 「残念。でもお酌ぐらいはしてくれるよね〜」 肩を竦めてふざけてみせた京楽に、は微笑みながら徳利を傾ける。猪口に零れるほどなみなみに注がれた熱燗をぐいと飲み干して、 満足そうに息を吐く。 「やっぱり美人にお酌してもらうと美味しいね〜」 「おだてたってこれ以上は何も出ませんよ。じゃあ浮竹隊長、俺は奥にいるんで。春水さんもごゆっくり」 空になった食器を片付けてその場に立ち上がると、はその場を離れた。その背を手をひらひらさせて見送っていた京楽が、 襖が閉まる音と同時に「で?」と浮竹に訊く。 「何がだ」 「何が、じゃないでしょう。君のことだよ」 改めてその名を出すと、気持ちが顔に出やすい正直者の浮竹の顔が面白いほど歪んだ。 隊長になってそこそこの年月が経つのにこの友人のこういうところは全く変わらない。 それが好ましくもあり、だから自分は彼と長く付き合っていられるのだが、 しかしこの場では浮竹の心の動揺などに構ってはいられない。縁側に膝を投げ出して座っていたが、 その膝を片方引き寄せて、片足の上に顎を乗せ、隣に座る浮竹十四郎の顔を下から覗きこむと、眉間に深い皺が刻まれていた。 「どうもしない。いつも通りだ」 ようやく帰ってきた答えは憮然としており、浮竹の機嫌が急降下に近い形で悪くなってきていることが分かる。 「ふうん。いつも通り、ねえ」 「何だ、何が言いたいんだ京楽」 引っかかる物言いに苛々しながら顔を向けると、 普段の京楽春水の姿からは想像できないほど強い光を宿した眸がひたとこちらを見つめていた。 京楽は振る舞いは軽薄だが、その眸は真実を見通す力を持った眸だ。 「鳥籠の中の鳥は自由な空に憧れたりしない、と言い切れるのかい」 静かに静かに問うてくる。眸は相変わらず外されない。浮竹を捉えたまま動かない。息が詰まる思いを抱きながらも、浮竹は答える。 「それでも自身が言ったんだ。俺はあいつを信じてやりたい」 「それが嘘ではないと言い切れるのかい」 「嘘、だと?いいかげんにしろ京楽。さっきから何なんだ」 息が詰まる。舌が乾く。それでもあの眸は変わらずに。京楽の瞳がすう、と細くなる。 そうして喉の奥から出された低い声に、今度こそ浮竹は激昂することとなる。 「忘れるなよ浮竹。俺達は全くの慈善で『』を傍に置いている訳じゃないんだ」 「なん、だと――!?京楽貴様っ」 がしゃん、と酒の入った器が地面に落ちて割れる音がした。粉々になった破片を踏んで、浮竹は京楽の胸倉に掴みかかる。 長い白髪が背で踊る。京楽はその肩越しに月を見た。月影に雨が細く降り注ぐ様子が見て取れる。 すぐに二人共濡れていた。だが京楽を掴む浮竹の手は緩みそうにも無い。当たり前だ。 彼は何よりも自分の部下を信頼している。とりわけに対する信頼は絶大だ。誰よりも浮竹の傍にあり、 誰よりも彼を助けてきた。その存在を、京楽は貶める様な物言いをしたのだから。 「本当のことを言ってるつもりだよ。彼の力はあまりにも大きすぎる。その斬魄刀の能力も、今の尸魂界には危険すぎる。 だからといってボクらでは彼には敵わない。それは多分山じいだって一緒だ」 「分かっている!だがは!」 「うん、君は自分から檻に入ることを望んだ。あの人がいなくなったからね。 だけど人の気持ちなんていつ揺らぐか分からないんだよ」 京楽の静かな言葉に浮竹の手から力が抜けていく。唇を噛み、その場に立つ親友の姿を黙って見上げる。 当たり前のことを言っているつもりだ。正論を述べているつもりだ。だがこの鬱屈とした気分は何だろう。 「ボクは時々彼が恐いよ」 さあさあと雨脚が空を駆け抜けていく。雨は止み、またもや美しい月が現れた。 しかしそのやわらかな光を楽しむ余裕など今の二人にはない。正直に自分の気持ちを吐露すればするほど、 目の前の親友は顔を俯けていく。どんな人物であれ、十三番隊に所属している限り彼は浮竹の部下だ。 それが全く分からない、という訳ではない。 「それでも、俺は……を信じる」 そうしてその親友は、京楽が創造した通りの応えを寄越した。まっすぐに注がれる視線。誰よりもを信頼している証だ。 網笠の下でやれやれ、と息をついて、京楽は聞こえよがしに大きく息をついた。 「いざという時には一人でなんとかしてね。ボクは面倒くさいのはゴメンだからさ」 ああ、と硬い表情のまま浮竹が頷くと、襖がからり、と開いた。顔を出したのは黒髪に桔梗色の瞳の綺麗な面立ちの青年だ。 「隊長ー今なんか物音が……」 ひょっこりと顔を覗かせて、浮竹と京楽が濡れたまま縁側にいるのを見つけたはそのまま三秒ほど固まる。 その間京楽は「あっちゃ〜見つかっちゃった」と網笠を深くかぶりなおし、浮竹は必至に弁明しようと試みるが。 「何してんだよあんたらは!もう駄目、お酒取り上げる。つうか今日からしばらく二人共酒は禁止。 浮竹隊長は朝の梅干も没収するからな。春水さんも!七緒ちゃんに言ってお酒禁止令出してもらうからなっ」 素早く部屋を横切って二人の隊長の傍に仁王立ちになると、本気で怒鳴り始めたに浮竹も京楽も縮こまるしかない。 「ちょっと君ひどいよぅ」 「酷くない。あ、隠れて飲もうとしても駄目ですよ。久里屋の徳利最中も禁止。見つけ次第全部没収」 「ええー!?それは無いんじゃないのく〜ん……」 「そ、そうだぞ。俺も朝の梅干を取り上げられたら一日の活力が……」 未練がましく抵抗してみるものの、綺麗に微笑まれて一蹴された。 ぱぱっとその場を片付けたに押し込まれるようにしていい大人二人は風呂に入れられた。 熱い湯に浸かり予想以上に冷えていた身体を温めながら、がっくりとうなだれる。 「美人が怒ると恐いねえ……」 しみじみと呟かれた京楽の言葉に、最早頷く気力すら浮竹にはなかった。 |